(出典: otakulei)
そもそも「Aとは何か」という命題が成立するためには「A」の存在について何かを知っている必要があるからです。「Aとは何か」というときに「A」について完全に何も知らなかったならば、もとより「Aとは何か」という命題さえも成立し得ません。そうすると、「神とは何か」という問いを哲学的に探求することとは、単に「神」を言語化するにすぎないことになり、究極的には単なる「同語反復」という「袋小路」と代わり映えしないことになります。
これをウィトゲンシュタイン的にいうと「われわれは語り得るものしか語ることができない。つまり、言語で語り得ることしか知ることができない」ということになります。そして彼の有名なマキシム「語りえぬものについては、沈黙しなければならない Whereof we cannot speak, thereof we must be silent.」が示されるわけです。つまりわれわれが「神」を言説化しようとしても、それはわれわれが言語で神を語り得る範囲を決して超越することはできない(つまり、究極的な同語反復の範囲を決して超えることはできない)。しかし形而上学の問題は、それをごまかしていることである、と。
語りえないものを語り得ると思い込み、言葉を尽くし何かを得ようと試みるのが、形而上学(もっといえば、倫理・宗教・芸術)である、と。ウィトゲンシュタインとしては、そのような「言説化」に対しては「沈黙」しなければならないというのです。ただし、これは哲学的試みを完全に否定するものではありません。むしろ、ウィトゲンシュタインの主張するところは、哲学のもつ役割を変えなければならないということを意味します。「語りえないことを無理に語りつくす」のが哲学の役割ではなく、「何が語り得ることであり、何が語り得ないかを明確にしていく」こと、この行為と探求自体が哲学が本来担うべき役割であると提唱するわけです。
- 「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」 (via petapeta)
ソーシャルゲームの「最初にプレイヤーを争わせておいて、武器を両方に売りつける=現実の戦争ビジネスと同じ」ってのはなるほどと思った
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ゲームに勝つには胴元になるのが一番。
(via hexe)
「権利がある」「権利がない」という言葉を「法として定義されているか否か」という以外の意味で用いると、時空が歪んで話が一歩も前に進まなくなり、参加者は全員老衰で死ぬ。
- Twitter / @shibata616 (via ag107)
クリエイティビティを満たすためのサービスは作ることができるのか
田村はねえ病気の女の子が好きなの、と彼女は言う。田村はね誰かを救うのが好きなの。私は救われて元気だから今は救うことができないの。もう女の子でもなくて、ずうずうしい大人なの。だから田村はきっとつまらないんだと思う。ちょっと前は会社の不安定な新人の相談に乗っててあやうく泥沼になるところだったみたい、逃げて帰ってきた。
私はようやく口をひらく。そういう話は、わからなくはないけど、でもあなたたちはそれだけで一緒にいるわけじゃないでしょう。それに人を助けたいこと自体は悪いことじゃない、私の会社の後輩と、あと古い友だちにもそういう人がいるよ、あの人たちを私は好きだよ。ピンチになったら呼ぶんだよって、彼らは言う、空を飛んで助けに行くからねって言う、空を飛んで助けに来てねって、私は言うよ。それを悪いことと思わないよ。
ため息と小さい笑いの中間のような音が返ってきて、絆創膏と私は思う。絆創膏を剥がしてください。やっぱり情報量は多いほうがいい。そう言わないうちに彼女は、私たちはそんな他人じゃないのよと言う。そんなね、ちょっとした友だちとか、会社の人とか、そういうんじゃないの。私たちは夫婦なの。私はあの人の伴侶なのにいつまでも助けられる立場になんかいられないでしょう。私はあの人と助けあって生きていきたいのに。
光のアート01 (via 驚嘆するしかない…光とアクリル樹脂を使って描かれた絵がすごい:らばQ)